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NANZUKA UNDERGROUND|「NANZUKA AGENDA」Vol.3|拡大するアート 田名網敬一の現在と未来

従来の現代アートの枠組みにとらわれない活動を展開するユニークな作家たちを擁するNANZUKA UNDERGROUND。白金にあるメインギャラリーに加え、以前のホームグラウンドだった渋谷の地下スペースに新コンセプトスペース「NANZUKA AGENDA」を開設するなど、今後の展開も注目される同ギャラリーのギャラリスト・南塚真史氏が、自身の体験をもとにしたアートシーンにまつわる回想録を綴っていきます。

Text:南塚真史
「マネー」という言葉が日本のメディアで一般化したことと関係があるかどうか分からないが、この数年でずいぶん「アート」という言葉が定着したように思える。日本人は、“ART”に対して、「美術」と「芸術」という2つの翻訳を持ち、長くその区別は明確にされてこなかった。少なくとも「アート」という概念は、明治時代までは、日本には存在していない。“ART”という言葉が、日本に初めて輸入されたのは、1873年のこと。時の明治政府が、ウィーン万国博覧会の出品規約を日本語に翻訳する際に、新たに生み出した造語である。
「西洋ニテ音楽、画学、像ヲ作ル術、詩学等ヲ美術ト云フ」。

しかし、この時に輸入された「アート」は、アートの本質そのものではなく、あくまでも総称としての言葉にすぎなかった。日本の美術界は、明治以降長らくピラミッド型の権力構造システムを持つ画壇の形成するマーケットに支配されてきた。画壇は、相互扶助的なシステムを提供する代わりに、固有の美的基準から逸脱することを許さなかった。結果、岸田劉生東郷青児平山郁夫東山魁夷といった日本国内のマーケットでしか値段が付かない巨匠の価格が、ピカソマチスと肩を並べるという奇妙な現象がかつて起こり、藤田嗣治草間弥生河原温杉本博司村上隆といった世界のビックネームと言えるアーティストに渡仏ないしは渡米を決意させた。

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海外のアートフェアに行くと、興味深いことがある。欧米のアート関係者は、作品を誉める時に「beautiful」(美しい)とはあまり言わない。代わりに、「wonderful」(素晴らしい)、「amazing」(驚くべき)、「awesome」(畏怖の念を起こさせる)と言う人が多い。「素晴らしい」は確かに日本でもよく聞くが、同時に「非常に美しい」も日本の美術界では常套文句だ。このことは、おそらく日本人のアートに対する姿勢をよく表している。
日本は伝統的に文化芸術に対して、鑑賞者の立場を主体とする印象批評の影響力が強い。これには、「美」という概念がより重視されてきた日本人の価値観が強く反映されている。「革命的な発明」よりも、「リファイン」(洗練)を得意とする日本人の細やかな感性とおそらく関係があるだろう。一方、産業革命を成し遂げた高度な文明と一体となって人間精神の覚醒を目指した西洋美術の目指すものは、必ずしも「美」ではない。アイデアや知識、知能そのものの総体としての「アート」を評価する欧米では、特に20世紀以降芸術作品の外見的な美しさだけではなく、その背後に秘められたコンセプトが重要視されるようになった。

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21世紀が幕を開け、アートマーケットは金融バブルと連動する形で激しい浮沈を経験した。しかし、それでもアートは今なお拡大し続けている。世界のアートシーンは、今もなお非常に積極的に「新しい息吹」を探し求めている。日本においても、「美術」でも「芸術」でもない「アート」の存在が、ようやく認知されるようになってきた。
そうした状況を反映してか、田名網敬一を「発見」しようとする動きが世界各地で起こっているという実感がある。今年の4月には中国深圳にある美術館において大々的な展覧会が開催され、現在もシンガポールにおいて現地の若手アーティスト集団phunkとのコラボレーション展が開催されている。また、この10月には、ドイツの所属ギャラリーであるgebr.LehmannArt Froum Berlinで、当ギャラリーがFrieze Art Fairで、それぞれ個展形式でプレゼンテーションを行う。まだ未決定だが欧州の非常に重要な美術館での展覧会の話も進んでいる。ギャラリーでの展覧会は、シンガポール、ニューヨーク、ベルリン、ロンドンとスケジュールはぎっしりだ。世界のアートシーンから観ると、田名網敬一は日本の戦後から現在に至るアートヒストリーのミッシングピースなのである。

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ご存知のように、田名網敬一は長らくグラフィックデザイナーとしてその名を知られて来た。実際に、田名網敬一は武蔵野美術大学デザイン科に入学し、在学中の1958年に当時グラフィックデザイナーにとって絶大的な影響力を持っていた日宣美において「特選」を受賞。そのまま殺到する仕事をこなすうちに、グラフィックデザイナーとしての地位を確立するに至った。特に60年代後半に一世を風靡したサイケデリックアートを取り入れた作風は田名網の代名詞となり、モンキーズの「The Monkees’Golden Story」(1968)、ジェファーソン・エアプライン「After Bathing At Baxters」(1967)といった2大サイケリックバンドの国内版アルバムジャケットを制作している。また、1975年に創刊した月刊「プレイボーイ」の初代アートディレクターとしても著名である。

しかし、田名網は当時より自身の表現フィールドを、グラフィックの世界に留める気などまったく持っていなかったし、自身をグラフィックデザイナーと限定されて呼ばれることも嫌っていた。その背景には、グラフィックデザイナーないしはイラストレーターというキャリアからスタートしたアンディー・ウォーホルの存在があった。

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田名網敬一は、アンディ・ウォーホルのボーダレスな活動と、エディトリアル的な創作手法に強い共感を覚えていた。田名網は、1969年に自費出版したコンセプトブック「未来虚像図鑑」について、「アートとしての本」と語っている。アーティストとしての田名網像を紐解く際には、田名網が60年代後半より実験映画の製作に力を注いでいる事実に注目しなければいけない。田名網は、ジョナス・メカス、アンディー・ウォーホルの影響を受け、映像というメディアの可能性にいち早く注目している。松本俊夫久里洋二ら国内のパイオニア世代のすぐ後を追いかけるように田名網は映像の制作に没頭し、その収入の多くを映像作品の制作に費やした。現在もまだ新作を作り続けており、その作品数は60点にものぼる。そして、これらの作品は、昨年にもシュツットガルト国際映画祭で招待上映されるなど、国際的に高い評価を受けている。また、田名網は当時東京では東京画廊や南画廊と並んで数少ない国際的なプログラムを持つ現代美術画廊として1974年にスタートした西村画廊で開廊初年度に展覧会を行っている。この時発表したアメリカのポルノグラフィーをコラージュしたプリントのシリーズは、内容が過激すぎたが故に警察沙汰になり、大きな話題になった。ちなみに、翌75年12月の同画廊における草間弥生のコラージュ作品による個展「冥界からの死のメッセージ」は、田名網が仲介して実現したということをおそらく誰も知らない。

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もっとも、本当の意味で田名網敬一が世界で唯一無二のアーティストとなったのは、近年確立したスタイルに移行してからのことだろう。2000年に、ギャラリー360°で行った60年代のシルクスクリーン作品の展覧会にボアダムスヤマタカEYE宇川直宏ら若手アーティストが熱狂的な支持をし、やがてその期待に応えるべく田名網はデジタル技術を駆使した新作のシリーズを発表する。
田名網は2004年に、この新作のスタイルでロックバンド「スーパーカー」のアルバムジャケットを制作し、一気にデジタルグラフィック世代の若者を魅了した。私が、田名網敬一の新作オリジナルペインティングを最初に発表したのは2007年のアートフェア東京であり、実はその時からまだ3年しか経過していない。この間で田名網は、100点以上のペインティングと8体の立体作品を発表している。世界のアートシーンから観れば、「脅威のルーキー」と言って過言ではなかろう。

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グローバル化の進むアートの現在にあって、田名網敬一はむしろその時代の波を待ち構えていたかのように、製作を続けている。世界中を探しても、田名網のようなキャリアのアーティストは珍しい。何と言っても70歳を超えて生み出されるその新作の斬新さと新鮮さに、私を含め多くの人はただただ言葉を失うばかりである。戦争体験や病気による臨死体験を経験している田名網には、もはや邪念や強欲はない。脳内に湧き出るイメージを作品に還元する喜びと楽しみに、日々を遊む田名網を、アートの未来が「大発見」する日は近いはずだ。いや、しかしそれでも田名網は、拡大するアートのその先を行くのかもしれない。

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Exhibition Information

NANZUKA UNDERGROUND

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