
NANZUKA UNDERGROUND | 田名網敬一と村上隆 |「NANZUKA AGENDA」Vol.6
従来の現代アートの枠組みにとらわれない活動を展開するユニークな作家たちを擁するNANZUKA UNDERGROUND。白金にあるメインギャラリーに加え、以前のホームグラウンドだった渋谷の地下スペースに新コンセプトスペース「NANZUKA AGENDA」を開設するなど、今後の展開も注目される同ギャラリーのギャラリスト・南塚真史氏が、自身の体験をもとにしたアートシーンにまつわる回想録を綴っていきます。
Text:南塚真史
この秋に、日本の美術史の将来にとって重要になるであろう2冊の書籍が出版された。
1冊は、田名網敬一と森永博志の共著「幻覚より奇なり」(リトルモア)。もう1冊は村上隆著「芸術闘争論」(幻冬社)である。
前者は、田名網敬一の幼年期からの原風景と現在進行形の創作活動を田名網本人の記述を基に、森永博志が見事にまとめあげた田名網敬一の伝記的な書籍だ。一方、村上隆の書籍は、主にアーティストを目指す若者に送られたガイドブックと言えるだろう。日本の美術教科書や美術学校では絶対に教えてくれない生きたアドバイスを、世界的な成功を収めたアーティストが解説しているのだから、非常に意義の深い書籍だと言える。

田名網敬一+森永博志「幻覚より奇なり」(リトルモア)

村上隆「芸術闘争論」(幻冬社)
私がとりわけ興味を持ったのは、日本の戦後アートシーンが生んだ希代の才能と言える田名網と村上の両者が、これまで互いにまったく直接的な関わり合いをもっていないにも関わらず、いくつかの点で奇妙にアイデアや理念が重なり合っているように思える点である。
まず村上隆の言葉で私が強く印象に残ったものは、戦後の日本に西洋美術史の延長にある”コンテンポラリーアート”が根付かなかった理由として、独自の発展を遂げた漫画の存在を挙げている点だ。そのような見解はかつて聞いたことも抱いたこともなかったので、非常に斬新で革新的な指摘だと感じた。確かに漫画は、画力、技法、画面構成力、ストーリー展開、メッセージ性、さらにそれら全ての要素のオリジナリティと、アートの必要条件の多くが要求される。手塚治虫や宮崎駿、水木しげるを例に挙げるまでもなく、漫画やアニメーションは日本において最も絶大な人気を誇る現代文化である。そして、その地位は過去も現在も未来も最高のクリエイティヴメディアの一つであり続けるでろう。村上はさらに日本の漫画やアニメーションが、今後世界のアートシーンで認められる可能性が十分にあると語っている。但し、当然のことながらアートのルールを理解していれさえすれば、というカッコ付きではあるだろうが・・・。実際に、アメリカのアンダーグラウンドコミックの奇才ロバート・クラムは、世界のトップギャラリーのひとつであるDavid Zwirnerでその作品が扱われており、その価格がオークションで1000万を超えたこともある。ちなみに、このクラムについては、村上も田名網も共に自身の著書で言及し、その作品を賞賛している。

R. Crumb "Walkin the Streets" courtesy of David Zwirner
漫画と言えば、田名網敬一の芸術的記憶の原点にあるのは、戦後間もない頃に「週刊朝日」(1946-1956)と「朝日新聞」(1949-1951)で連載されていたチャック・ヤングによる漫画『ブロンディ』であったという。また、田名網のその後を決定的に印象づけた作家修行処女体験は、田名網少年が毎週のように読者投稿欄に1コマ漫画を送り続けていた人気漫画雑誌『漫画少年』(1947-1955)に「カンラ・カラ兵衛」を連載していた憧れの漫画家・原一司への弟子入りだった。「幻覚より奇なり」にはつぎのようにある。少し長くなるが引用させてもらう。
「・・・『漫画少年』は私の夢や希望や、あらゆる願いをかなえてくれる魔法の本に見えた。書店で手にしたときには胸いっぱいの幸福感を味わった。見るのがもったいないという思いと早く読みたいという気持ちの葛藤もけっこう楽しくて、表紙を撫でたり、重さを確かめたり、鼻を擦りつけて印刷インクの匂いを嗅いだりした。たった一冊の本をこんなに楽しめるなんて、いまでは考えられないことである。『漫画少年』は、人気作家による連載と並んで、その頃では珍しい読者投稿欄にかなりのスペースを割いていた。急いで学校から帰ると小さなハガキに1コマ漫画を描き、翌日、祈るような気持ちで学校のそばのポストに投稿する。最初の頃は選外佳作欄に小さく乗っていた名前もしだいに大きな活字になり、最高の特選にも選ばれるようになった。・・・さて、こうした私の漫画熱は下がるどころか日を追ってますますエスカレートしてゆき、学校の勉強もそっちのけで、授業中でもかまわず教科書からノート、下敷きにいたるまで、あらゆるところに漫画を描きまくるようになっていた。ちょうどそんな時期に、『漫画少年』にも連載されていた人気漫画『カンラ・カラ兵衛』や『ヨウちゃん』などの作者・原一司先生と父が偶然大学時代の同級生だった関係から、先生に私の漫画を見ていただけるチャンスが訪れた。・・・物凄く暑い夏の日、父と私は原先生のお宅に伺うことになった。私は日頃描きためた漫画の他に、赤いバットの川上や青いバットの大下など野球選手の写真を見て描いた樺島勝一ばりのペン画や、島崎雪子、マール・オベロン、キャサリン・ヘップバーンなどの人気女優を描いた鉛筆画などの分厚い電話帳ほどもある風呂敷き包みを抱え、膝をガクガクさせながら先生の家の客間に座っていた。・・・やがて「いらっしゃい、待たせたね」と言いながら、紺色の和服に黒のロイド眼鏡をかけた先生が現れた。そして下手糞な子供の絵を1枚1枚ゆっくりと1時間もかけて見てくださり、いろいろと細かく批評したあとで厚切りのおいしい羊羹を御馳走してくださった。・・・その後、二ヶ月に1度くらいの間隔で描きためた漫画を見ていただけることになり、先生のお宅に通うことになった。・・・あるとき先生は、『カンラ・カラ兵衛』の原画を見せてくれた。薄く下描きした鉛筆の線が消されずに残っている作画中のものだった。白い紙の絵で濃いスミ線で描かれた『カンラ・カラ兵衛』が立体的に浮かび上がって見えるほどスミ線と真っ白い紙とのコントラストが鮮やかだった。「こうやるとねえ」と言いながら、原先生は下描きの鉛筆線を消しゴムで綺麗に消すとニッコリ笑われた。余分な線がなくなると、そこには雑誌でおまじみのあの『カンラ・カラ兵衛』が笑っていた。」

漫画少年 昭和24年新年特大号 (表紙のタコに描かれた絵は「カンラ・カラ兵衛」)
その後、原一司が結核によって突然の死を迎えたことによって、田名網の通い弟子生活は終わりを迎えてしまうが、後のグラフィックデザイナー、イラストレーター、アートディレクター、映像作家、そして現在のアーティストという超複合的な職業経験の中で田名網が武器とし続けている「編集」という創作手法の原点に、この時の体験があるのは間違いない。場面展開を必要とする漫画は、1枚の絵画を制作するのと違って、全体的な構成能力、つまり編集能力が必要となる。
以下、田名網の記述である。
「若い頃の私のデザイン思考に強烈な印象を与えたものは数限りなくある。だがその中で特に印象的だったのは名作『戦艦ポチョムキン』の監督、セルゲイ・エイゼンシュテインの“モンタージュ理論”である。もともと“モンタージュ”というフランス語は“断片を組み合わせる”という意味を持っているが、映画における視覚的文法としてそれを理論化したのがエイゼンシュテインであった。つまりそれは、撮影したフィルムをつなぎ合わせてある特定の意味を持った映像に組み立てることを指しているわけだが、問題はその際のつなぎ方や組み立て方である。そこには監督自身の創意が如実に反映されるわけで、これはまさに“編集”的発想の核心を成すものとも言える」。
こうした手法が実は漫画において先駆的に行われているという事実を、田名網は経験としては知っていたはずである。
田名網が職業デザイナーとなった60年代~70年代の日本の芸術界は、画壇を形成する日本画及び洋画だけが国内に存在するほぼ唯一の芸術だった時代である。田名網の親友である”牛ちゃん”こと篠原有司男、赤瀬川原平、荒川修作などによる60年代のネオダダ運動はあったものの、日本に西欧式の現代美術の文脈が根付くはずもなく、田名網は当時から日本のアートシーンについて冷めた視点でその問題を指摘し、新しいアーティスト像を模索し続けていた。
「僕の考えでは芸術家というのは職業ではない。芸術という行為を行っている時は芸術家といえるが、それ以外の時は学校の教師とか、いろいろ職業を持っている。逆にカメラマンやデザイナーというのは職業なんだ。いまでは、芸術という美名のもとに他人の写真を切り抜いてコラージュしたりする。しかし看板屋さんだったら、そんなこと許されない。マス・ソサイエティをリードしてゆく者は芸術家でもなんでもない。きっとまるで違う新しいものじゃないかな。」(『未来虚像図鑑』田名網敬一 1969年)
この点について、田名網は後に、アンディー・ウォーホルがイラストレーターを出発点にアーティストとして成功し、シルクスクリーンという印刷技術を使って精力的に創作活動を続け、一方で映像作品や出版事業、はたまたディスコまで運営し、社会のムーブメントを作っていた事実に大きな刺激を受けたと語っている。

田名網敬一「JAYNE M」(1967)
一方の村上隆は、田名網がデビューした60年代当時からいまだに大きな変化のない日本のドメスティックなアートシーンの現状に強い危機感を抱き、もっと具体的に宣言をしている。
「・・・現状の速度と変化に気づかずに、極東の片隅でニューヨークやヨーロッパの芸術界を、200年前と同じ視座で、彼らの先鋭性の文脈を勘違いしながら、眺望しつづけるしかないのでしょうか。否、そうではありません。僕はまったく違った争点で芸術を発想し考え創造してきました。ポイントはただ一つ『西欧式ARTヒストリーへの深い介入可能な作品制作と活動』。それによってのみ、はじめて西欧式ARTのルールそのものも書き換え可能となる。『今』その構造を断ち切り、変革の時代を認識し、ぼくら極東の日本人が使えるアングルを捻出することは、日本芸術界の悲願とも言えます。」(芸術闘争論)
では、ここで村上の言う「西欧式ART」とは何なのか。村上はその必要条件と十分条件を次のように挙げて解説している。
まず、作品のクオリティとして最低限の「構図」「圧力」「コンテクスト」「個性」の4つをクリアしなければいけない。さらに「コンテクスト」の主題として、「自画像」「エロス」「死」「フォーマリズム(美術史)」「時事」の5点を事前のルールとして具体例を挙げながら説明する。そして、これらの課題をクリアするための帝王学として、日本のアート界の根底に流れている「芸術自由神話」を絶対的に否定し、「傾向と対策」をもって戦略的に作品を作るべしと繰り返し説いている。
既得権益的な美意識に守られた画壇芸術や美学的解釈を美徳と捉える日本の美術史アカデミズムからすれば、タブーとも言える自由神話への挑戦は、おそらく村上隆以外には誰もできないだろう。しかし、世界の美術史(≠日本美術史)にその名を刻むことを目指すのであれば、その指摘は正しいと私は思う。西欧のARTの現在は、感動よりも啓蒙を上位に置いている。そしてその傾向は近年ますます高まっているように思える。ARTに傾倒している世界のエリート層の人々は、めまぐるしく変化する社会状況に直面し、現在地点の確認や未来予測のための核心に迫るヒントをARTに求めている。従って、ARTがいかに感動的なストーリーを提供したとしても、それが既に知った話であれば意味がないのである。その違い=「個性」こそがアーティストとして成功できるかどうかの最終関門と言えるであろう。
この点についての村上隆の助言はこうである。
「これは私の試論ですが、作家になっていくには、師ー徒弟制度とか、スクール(流派、学派)ー、例えばバウハウスとか、こういうところで密着して作家にぴったりついて教育を受けるしか可能性はないと思う・・・オリジナリティーを個人の中から引っ張り出すのもこれは才能です。これを自力でやれる人はあまりいないのではないか。・・・オリジナリティーというのが常に新しいことをやればいいのかというとぼくはそうではないと思っています。例えばトム・ウェッセルマンはポップアートでは中堅どころとして、アメリカでは非常に評価されています。他にはジェームス・ローゼンクイストという作家もいます。彼らは日本ではそんなに有名ではないかもしれない。アメリカポップアートを構成するにあたって、有名ではないアーティストを含めると50人くらいがデビューしてポップアートそのものを盛り上げました。その頂点がアンディ・ウォーホルです。頂点でなくともロイ・リキテンシュタインとかそういう作家がいるわけで、ではどうすればいいのかということが問題になるわけです」。
つまり、”オタクアート”、” スーパーフラット”という「使えるアングル」をすでに武装するカイカイキキという一派の親分である村上隆は、オリジナリティについては集団で束になって勝負すればいいと。そのために、ギャラリー機能を持ちアーティストの育成に励んでいるという論理だ。
たしかに、ダミアン・ハーストやトレイシー・エミン、サラ・ルーカス、マーク・ウォーリンジャー、レイチェル・ホワイトリードらイギリスのトップアーティストたちを総称するYBAや、ネオ・ラオホの率いるライプチヒ派などと呼ばれる目に見えない共闘集団が世界にはいる。しかし、カイカイキキだけでは村上の目指す「200人のアーティストを世界のアートシーンに送り込む」ことは不可能だろう。それならば強い10人の方がより現実的だ。この村上の戦略を今の日本のアートシーンがサポートできるかどうかは、村上本人はもちろん、今後の日本のアートシーンに大きな影響を及ぼす可能性があるだろう。なぜなら、私たちが好むとも好まざるとも、MURAKAMIは世界のアートシーンで最も有名な日本のブランドであり、その権威の失墜は日本のアート全体の相場にも大きく影響するはずだからである。

田名網敬一「千手観音」(2008)Keiichi Tanaami courtesy of Nanzuka Underground
ところで、この「オリジナリティ」について、おそらく村上が意図的に語っていない村上作品の大きな強みがある。よく聞く村上隆に対する批判的な見解として一番多いのは、私たち日本人にとってはネタバレしているという指摘である。つまり、村上作品のオリジナルはアキハバラや往年の子供向けTV番組などに探すことができる、だから村上は日本で評価されないと。
たしかに元ネタは探せるかもしれない。しかし、だからダメという指摘は間違っている。なぜなら、それは”目に見える”ことでしかないからだ。見たことがあるイメージがダメなら、アンディ・ウォーホルの芸術は成立しない。村上作品の本当の革新は、実は作品のビジュアルではなく、あるいはコンセプトでもなく、おそらくテクニックにある。村上隆を有名にした立体作品は、FRPでできた等身大のキャラクターである。
それまでARTの世界では、彫刻と言えば木彫か石、鉄、ガラス、セラミックという素材しか使われていなかった。そこに村上はFRPという工業製品用の素材を用いて巨大な彫刻を制作した。FRPなので丈夫で軽い。しかも彩色も自由にのる。その発明のインパクトはアートの歴史から考えれば非常に大きい。魔法が1つ増えたようなものだ。
またペインティングに関しても、村上は時に日本画の技法を駆使し、同時にシルクスクリーンを用いるなどして、かつてない精密な画面を生み出した。一見するとプリント作品のようだが、近寄ると漆のような光沢と色彩の深みを持つペインティングだ。
80年代の荒いブラシストロークやドリップなどを駆使するニューペインティングのブームが一周した後のアートシーンでは、村上の絵画はまったく新しいものとして受け止められた。事実、筆の抜け毛1本も許さないあのような緻密な絵が描けるのは世界広しといえども日本人だけだろう。つまり、この画法の発明、技法の開拓こそが村上の今日のステイタスを作った最大の要因なのである。従って、もし村上隆をフォローするのであれば、スタイルではなくテクニックの方が良い。実際に立体作品に関しては世界中にフォロアーがいるが、田名網も村上彫刻の薫陶を受けている1人である。
村上隆は、日本におけるアーティストのなり手が芸術的分野の落ちこぼれしかいないと自虐的に言う。
「なぜか。例えばグラフィックデザイナー、ゲーム・クリエイター、VJ、オタク系イラストレーター、そしてマンガ家。そういうふうに日本の社会の中で、社会一般にクリエイティヴな人間が出て行く道筋というのは、毛細血管のようにはりめぐらされていて、いくらでも才能のある人間が世間にプロとしてデビューする場があります。ところが、ことアートに限っては、まったくそういう道が閉ざされ完全にふさがっています。つまり、日本社会の中でニーズがないのに、アーティストになることを選ぶ。それは、さきほど述べたようなクリエイティヴな才能に恵まれないということが前提となるわけです」。
しかし、本当にアートは日本社会においてニーズがないのだろうか。アートはその発生当時より常にパトロン(サポーター)を必要としてきた。そして、もちろん最大のパトロンというのは国家だ。現在世界中でビエンナーレ、トリエンナーレといった国際展が開催されているが、それはアートが国家のブランディングにとって有益だと考えられているからだ。村上隆のベルサイユ宮殿での個展をスポンサーしたのはカタールという国家だという。砂漠の中にオイルを資源に持つカタールは世界でもまれに見る金萬国家だ。カタールは何も手放しでアートに投資しているわけではない。文化大国として世界中から尊敬されることを狙っていることは明確だ。2年に1度ベニスで開催される世界最大の国際展ベニスビエンナーレでは、各国のパビリオンでその国の威信をかけた展覧会が開催される。
そうした世界中の文化競争の中にあって、日本のスタンスはあまりにも消極的だ。90年代のバブルの崩壊後、文化どころではないというのが国家の本音かもしれないが、アーティストやギャラリーが手持ち弁当で活動しているという実態を変えていける可能性があるとすれば、村上隆のようなビックプレイヤーを数多く育成し、発言権を増していくしかない。田名網も村上もその書籍の中で美術教育の問題点を指摘しているが、あるいは村上隆が東京芸大の学長になるというアイデアがあってもいいくらいではないか。
両者の近著に対して、奇妙なナショナリズムを持ち出して西欧上位概念は古いという方もいるだろう。しかし、私がかつて書いたように、あるいは村上隆も指摘するように、およそ学問の対象となるようなART(ファインアート)の概念は、そもそも西欧で発明され輸入されたものであり、今もその主導権、決定権は変わっていない。日本がいかに独自の理論を展開しても、その内側に入ってから叫ばないと意味がないという事実に変わりはない。村上隆はそのために200人のアーティストが必要だと言っているが、おそらくそれだけでも足りないだろう。全ての関係者が村上隆と同様のエネルギーでファイティングポーズを取り続けられるわけではないだろうが、その活動を援護射撃する勢力が日本発信であってもいいように思う。
Exhibition Information1月8日〜2月5日まで、白金・NANZUKA UNDERGROUNDでリナス・ファンデ・ヴェルデ、五木田智央、佃弘樹によるグループ展「BW」が開催される。また、1月29日まで、渋谷・NANZUKA AGENDAで横山裕一「カラー土木 オープンスタジオプロジェクト」が行われている。
Posted by:NANZUKA UNDERGROUND
2005年、南塚真史によって設立。田名網敬一や空山基といった戦後日本の美術制度の中で埋もれてきた才能を国際的な枠組みの中で再評価する仕事に努めている。その一方で、国内外の若手及び中堅作家の育成と紹介を行っている。2009年4月、白金アートコンプレックスにメインスペースを移転。2010年6月より渋谷の旧スペースをNANZUKA AGENDAとして再起動。ファッション、音楽、デザインとの交流も積極的に行い、アートとデザイン、商品とアート、日常と美の関係といった現代美術の主要な問題に対して実験的な挑戦を試みている。













