
ZON ITO | 伊藤存 | Artist
刺繍を用いた独自のアプローチで、どこか浮遊感のある“定着しない”世界観を提示するアーティスト伊藤存。一見未完成のような、少し心もとなくもある彼の作品は、制作における時間軸や現場感を浮き彫りにすると同時に、受け手それぞれに異なるイメージを想起させてくれる。受け手とのコミュニケーションを楽しむかのように、自由な表現活動を続ける彼の個展『バイ-バイ-エックス』が、今年1月に移転したばかりの東京・児玉画廊で開催中だ。刺繍というフォーマットにこだわりつつ、様々なメディアで制作した作品も同時に展示されている本展の開催を期に、伊藤存に話を聞いた。
Text:原田優輝
作家としての活動を始められる前はどのようなことをされていたのですか?
学校を出た後、A4サイズのコピー用紙なんかに個人的に絵を描いたりはしていたのですが、すぐに発表することはありませんでした。その頃は「反重力ジョニー」というバンドにも参加していて、ギターを弾いていました。重力に逆らって、終始逆さ吊りで演奏するというロックバンドです。また、卒業してすぐに芸姑さんのかつらを作る職人さんの助手のような仕事も始めていました。この職人さんは65歳位で、奥さんも子供もいるのですが、女性と等しく男性も好きな人で、僕はこの人になんとなく気に入られ、「明日から家においで」というノリで、基本的にはただ仕事場に居るだけで給料をもらっていました。
色々な経験をされてきたようですね(笑)。
特殊な環境だったので興味深いことも多く、面白かったのですが、1年も続けると虚無感に襲われてきました。それで、仕事をやめ、日頃描いている絵のファイルを雑誌社に持って行き、イラストの仕事を探したりし始めたんです。結局、雑誌社からは仕事をもらえなかったのですが、『Super!』という京都のフリーペーパーの表紙の絵を描く機会をもらえました。完成したフリーペーパーを見た時はスゴく嬉しかったですね。

『浅瀬の旅行』(2000)
その頃はご自身の作品を展覧会などでは発表していなかったのですか?
ちょうどその頃、友人の紹介で、大阪で画廊をオープンしようとしていた児玉画廊の児玉さんとたまたま知り合うことになり、その1年後くらいに展覧会をすることになりました。この時期はまだバンド活動も並行して続けていて、グループと個人の活動両方ができたのは幸せでした。
刺繍を表現手段として使い始めたのはいつ頃からなのですか?
児玉画廊では、アクリルで描いたペインティングをグループ展で発表したのですが、それまで描いていた小さなサイズの絵を描くようにはいかなくて、結構苦労したんです。絵の具はたれるし滲むしで、自分で描いているのか絵の具の現象なのかがわからなくなり、混乱してしまって…。でも、同時に小さい絵とも違う面白さの予感みたいなものも感じていて、これをどうにかしたいという気持ちも生まれました。そこで思いついたのが刺繍でした。学校の卒業制作の時、いろんな方法で描いた絵をスクラップした作品を作ったのですが、その中に刺繍で描いた絵も3枚くらい入れていたんです。小さな絵だったので、染色専攻の友人の部屋でも描いていたのですが、ちょうどそこに刺繍糸があったので、刺繍をやってみたのが最初のきっかけです。

『picnic』(2001)
刺繍がご自身の表現方法に合いそうだという予感はあったのですか?
刺繍は、やったところとやっていないところがハッキリしているので、画面に残されたものは全部自分がやったと思えるし、それが自分にとって良い方法と思いました。刺繍の独特な風合いが好きなのと同時に、なんとなくヤボったいなと思う気持ちもありましたが、それよりも自分が何をどう描きたいのかということを探ることが、モノとしてのクオリティを追求するよりも先決だと思ったんです。
実際に刺繍を始めるようになって、気付いたことはありましたか?
作品を作るときは、見えてもいないのに、見えているような「○○な感じ」といったような観念的な感覚が最初にあるのですが、スピード感のない刺繍の作業では、そういった衝動を嫌でも観察し直すことになります。手を動かすという体のリズムと、それを見ながら進めるという頭のリズムのバランスが取りやすいんです。その一方で、作業自体はものスゴく画面と近いので、予想外の展開もある程度受け入れることになり、そこも面白いと感じています。例えるなら、歩いている時に自分は日本のココを歩いていると頑張って自覚しようとしながら、目の前の面白そうな路地にも気をとられたり、立ち話してしまうような感じですね。


(左)『ベアー』(2005)、(右) 『ようこそ人間の味』(2008)
刺繍作品における制作の行程について教えてください。
刺繍を始める前には、結構な量のスケッチをします。作品によっては50枚位になることもあります。かといって、それがイメージしている完成図というわけでもありません。「日本のココを歩いていることを自覚するように〜」、と先ほど話ましたが、スケッチはまず自分がどこに行きたいのかというアタリをつけるような作業です。それがだいたい分かれば、ディテールから入ろうが、全体から入ろうが、刺繍自体を楽しむことができます。下描きはしないで始めるので、準備体操が必要なんだと思います。
伊藤さんの作品は、動植物がモチーフになることが多いと思いますが、モチーフ選びのポイントを教えてください。
動植物の動きや形態が“描く手を引っぱってくれる”部分が大きいと思います。それと、自然については、その分かりやすさや、逆にとらえどころのない複雑さがスゴく気になるんです。釣りが好きなのですが、魚釣りは魚に触れることはもちろん、魚影をみたり、薮こぎしたり、川の中に浸かったりします。描いているわけではないのですが、そんなことがスケッチしているような経験になっていると思います。具体的なモチーフなので、意味や物語性が生じるということからは無関係とは言い切れませんが、描かれていることの意味についてよりも、描くということをどう経験するかということを考えています。だからといって線の運動や行為自体に没頭することにはすぐ飽きてしまうので、どこかで自分と相対する対象が必要なのだと思います。

『bi-bi-X』 Insallation View at Kodama Gallery | Tokyo(2008)
現在児玉画廊で開催されている個展について教えてください。
最近は『森』という作品にあるような流れで制作してきました。この作品では、ひとつの線が複数の木々の一部になるような作りをしていて、ひとつの作品でありながら多面的な見方ができます。個展のタイトル『バイ-バイ-エックス』には、そういう多面的な意味を持たせています。また、『森』の流れにある次の試みとして、初期の作品にあったような割と具体的な見え方のモチーフたちでできたものを、いかに多面的で着地点の見つからないものとして作れるかということをやっています。
立体や映像作品など、刺繍以外の作品も展示されているようですね。
たくさんの小さな立体のピースで出来た、「部分」と「全体」を持つ作品があるのですが、これは現場で完成するものなので、展示には他の作品にないようなテンションがあると思います。また、06年から作り続けている、デジタルカメラを使った映像作品もプロジェクションしています。これらの作品は、刺繍を補足するようなものではありません。作品同士がお互いに疑い合うというか、裏切り合うみたいな関係を作れたらと考えています。

『bi-bi-X』 Insallation View at Kodama Gallery | Tokyo(2008)
様々な表現方法を使い分ける必要性はどのあたりに感じているのですか?
まずは、やってみたいことはやっておきたいという単純な気持ちもあるのですが、例えば、「刺繍だったらこういったことは表現できない」とか、「これは映像にしか出来ないこと」というように無意識のうちに制限を決めてしまっていないかが気になるんです。実際いろいろな手段をやってみることで、それぞれの手段でしか出来ないと思っていたことが、勝手に自分が作っていたリミットでしかないということがわかります。また、意外なところにリミットがあったりします。あと、やってみることでそれぞれの表現方法が影響を与え合うことがあればラッキーですね。
伊藤さんの制作活動を支えるモチベーションはどこにあるのですか?
日常の生活の延長ではあるのですが、自分にとって制作する時間はやっぱり特別な時間です。制作すると普段の生活への目線も変わります。作品を作っていると、自分が当然のように思ってやっていることが、案外根も葉もないことだったと気付くことがあります。また、それと同じくらいかそれ以上に、新しい発見もあります。作品を作っていなかったらそれに気付くこともなかったかもしれない、という気持ちが次の制作につながっています。
作品製作における一貫したテーマなどはありますか?
今話したような、流動的な部分に支えられているところがあるので、特定のテーマはこれといってないのですが、今の時代に生きている以上、「今」との関係は断つことは出来ないし、作品の作り方にも影響があると思います。たとえば、怖いくらい便利すぎるシステムとか、簡単に手に入る知識とか、日頃は楽なので自分でも使いますが、そこにはちょっと引っかかる気持ちもある。そのようなことが、自分で何かを実感しながら作りたいという欲求になっていくと思います。あと、ちょっと飛躍し過ぎかもしれないですが、魚釣りの時に妙なカンが働いて釣れてしまうことや、昔、マレーシアの飛行機で聞いたマレー語が、意味もわからないのに懐かしく感じたこととか、日常生活や自分が作られた歴史みたいなものとは無関係にあると思えるようなことをたまに発見します。上手く言えませんが、何かを作ったりすることは、そういう頭より先に体がわかるような感覚とも、強くつながっているような気がして仕方ありません。

『森』(2006)
伊藤さんの作品は、鑑賞者に作品の見方を委ねている部分が大きいように感じるのですが、受け手とどのようなコミュニケーションを計りたいと考えていますか?
作り進めていくと、取りかかる前の漠然としているけど確実にある感覚が、ハッキリしてくる状態があります。そこから先に進めようとすると、完成度を高めていくことにはなるかもしれませんが、逆に語りかける力がどんどん弱まっていく気がしてしまいます。どんな表現方法でもその部分に意識がいくんです。心もとない気もするのですが、そういった状態で発表しようと思っています。見る人が自分の作品の前で長い間立っていてくれるのを見たら、自分の作ったものがその人の何に触れているのかを考えて、ドキドキします。その時間が作れれば、直接話さなくても良いとすら思えます。でも、実際に意外な意見を聞いたり、逆になんで伝わるんだろう、と思うくらいのことを指摘されたり、そんなふうにしっかり見てくれる人と話せるのは、たった一言であっても、作品を介してのみできる特別なコミュニケーションだと思っています。
最後に、将来的にチャレンジしたい表現などがあれば教えてください。
作品制作を始めた頃は、言語では表現できないことがあると考えて続けてきましたが、最近はその自分で設けた枠がうさん臭く思えてきました。そのことを確認してみたいです。あと、描いた尻から消えていくような本当にライヴのドローイングができないかなとか考えています。

『NEW TOWN』(2006 / Little More)より。
個展『バイ-バイ-エックス』は、1月19日〜3月1日まで児玉画廊にて開催中。







