loading...

PUBLIC-IMAGE.ORG

Creators Dictionary for Realtime Culture

  • PUBLIC-IMAGE.STORE
  • PUBLIC-IMAGE.3D

PARAMODEL | パラモデル | Artist

会場全体を「プラレール」などの玩具で覆い尽くす圧巻のインスタレーションをはじめとする作品で、熱い注目を浴びている林泰彦と中野裕介によるアートデュオ、パラモデル。これまで、関西を拠点に活動してきた彼らだが、ここ最近『Akasaka Art Flower 08』、『都市のディオラマ:Between Site & Space』、『拡張された感覚—日韓メディアアートの現在』など、都内でのグループ展などにも精力的に参加し、その認知度は全国区になりつつある。終わりなき”UNDER CONSTRUCTION”状態であるがゆえに、どこまでも拡散していくかのような「永続性」、もの作りへの激しいオブセッションから生まれる”場”の「高揚感」によって、鑑賞者をパラモデルワールドの虜にさせてきた彼らだが、その制作の根底には一体どのような想いがあるのだろうか? メールインタビューを行った。

Text:原田優輝


おふたりが出会い、共に制作をするようになるまでの経緯を教えてください。

元々同じ大学の出身で、専攻は違うながらも交流がありました。共同制作としては2001年にパラパラマンガを用いた林のインスタレーション作品に中野が参加したのが最初です。その後、大阪のギャラリー裏窓での「林+中野」名義の初個展等を経て、ヴォイスギャラリーがグループ展やイベントに誘ってくださるようになり、映像インスタレーションやマルチプル作品制作をベースに活動が進んでいきました。

パラモデルというユニット名になったのはいつからですか?

22003年に、「模型遊び」「パラパラマンガ」「パラレル」「極楽」「パラドックス」「パレード」「彼岸 param」など、テーマを模索しながら、ユニット名を「パラモデル」とし、発表を始めました。以後、ペインティングや写真を主にした京都と神楽坂のモリユウギャラリーでの個展を軸に、プラレールや塩ビパイプなどを用いた大型インスタレーション制作、それを応用したワークショップ形式の共同制作といった活動が中心になっています。現在は、得意領域や趣向の異なるパラレル [parallel] な2人が、『パラ-モデル [para-model]:世界や心の色々な部品から組み立てる、極楽や絶景 [paradise] 〜パラドックス [paradox] の詩的な模型/設計図 』というコンセプトを核に、共存、互いの視差 [parallax] と関係性を生かし、2人で「模型遊び」をするように多様な形式で作品を制作しています。また、僕たちはユニット名の頭文字「P」を作品でもよく用いるのですが、それは「PARA」同様、気になる言葉の頭文字であることや、「Pファンク」の「P」の意味に色々な解釈があるように、意味の限定できない謎めいた領域に導く定数「P」というようなイメージがまずあります。それから、街に溢れる「P」には、一時止めの「コインパーキング」「立体駐車場」の表示があります。僕たちは「車」を題材にすることが多いのですが、間仕切りが無く種々雑多な「車」がたくさん並んでは消えて行く、平面や箱型の時間貸「パーキング」は、僕たちの在り方を言い換えるイメージの一つだと考えています。

パラモデル

「プラレール」を用いたインスタレーション『パラモデリック・グラフィティ』が知られていますが、そもそもなぜ「プラレール」に興味を持ったのですか?

2003年くらいから、ミニカーやプラモデルなどの玩具を作品の素材として使用していました。そして、2004年にギャラリーそわかより持ちかけられた展覧会のプラン構想中、たまたま近所の空き店舗のような所で、子供が「プラレール」で遊んでいるのを見かけ、「これを使えば大きなスペースに絵が描けるかな」となんとなく思いついたのが最初です。それから、床面だけではなく、天井や壁面にもレールを広げて空間全体を用いることなど、具体的なプランを練りました。実現には大量のレールが必要だったのですが、モリユウギャラリーの仲介で株式会社トミー(現タカラトミー)から協力を得ることができ、実際に作品化できることになりました。

『パラモデリック・グラフィティ』のコンセプトを教えてください。

この作品は、「プラレール」を連結させていくことによってできる青いラインをドローイングの「線」として用い、ギャラリーの床、天井、壁といった空間全体、ビルの屋上や庭、公園などに、巨大な「落書き (Graffiti) 」を施してゆくサイト・スペシフィックな作品です。中に入ることもできるこの作品は、僕たち2人による色々なイメージを重ね持つ巨大なドローイングであると同時に、その「線」は厚みや形のあるオブジェでもあり、ジオラマ模型遊びや単なるおもちゃの散らかし、そして落書きでもあり…と様々な領域を不確定に行き交います。また、伸び続けるレール玩具の性質上、常に拡張の可能性を保ち、決して「完成しない」という永遠性や、遊び(展示)が終われば片付けられ、跡形なく「消え去る」という刹那性も併せ持ちます。ジオラマ模型を作っていた僕たちも、いつの間にか天も地も無い巨大なジオラマ模型の中に入り込んでいるような、いろんな意味でパラドキシカルな作品だと考えています。

制作におけるおふたりの役割分担や関係性について教えてください。

例えば「藤子不二雄」は、後期はFさんとAさんに分かれましたが、「藤子不二雄」という大きなくくりの中で2人の作品が共存しています。当時は2人が別作業でやっていることは知らなかったのですが、作品の絵柄やニュアンスの違いを子供心に「不思議やなあ」と思いながらも、違和感無く受け入れていたし、世間的にもそうだと思います。方向性の違うお互いが独立しつつも、一つの全体である。日本は今も昔も「和様と漢様」「寺と神社」「和食と洋食、和室と洋室」などといった、異質で矛盾もする二項を対立させずそのまま並べ、間仕切りなく併存させる習慣が色濃いように思いますが、彼らはそうした在り方の象徴のようであり、二項の差異からより豊かに物が産まれる仕組み、その可能性を面白可笑しくも示しているように思います。そんなパラドキシカルで奇妙な関係性のモデルとして、やや理想化しつつ「藤子不二雄」を捉えていますが、僕たちの在り方はそれに近いと考えているし、作品と共に僕たち自身も「パラドキシカルな理想模型」でありたいと思っています。

パラモデル

作品制作にはどのような意識で取り組まれていますか?

僕たちは、模型的なものをモチーフや素材に用いることが多いのですが、表現形式としても、2人がお互いにおもちゃを持ち合って遊び合うようなニュアンス、「模型遊び」をベースにして制作しています。「模型遊び」には、世界を擬似的に、おもちゃのように手に入れたい、という普遍的な欲求のほか、模型を作る、模型で遊ぶ、模型を並べジオラマを作って眺めて楽しむ、など様々な側面があります。例えば「模型遊び」の要素を取り入れた箱庭療法で、患者の作った箱庭が彼らの様々な心理状態を表すように、「模型遊び」には、どんな状況でも遊ぶ者の心理や外世界の様々な事象が、意識的にも無意識的にも自然にモデル化して立ち現れるという性質もあります。僕たちは表現する上で、そうした様々な要素を有効なことだと考えています。

そこから生まれる作品は、おふたりにとってどういうものなのですか?

理想イメージの「模型/設計図」のようなものと捉えています。一般的に模型と言えば立体物を指すと思いますが、僕たちはペインティングや写真、映像など作るもの全てを、本物でない何かを指し示す、模型的なものに拡張して考えています。そうした模型的作品は、異質な2人の相互作用である「模型遊び」の「場」から、その場限りでストーリーは決めず、自然発生的に産み出される「もの」であり、またそれが出来ていく「過程自体」であり、さらにそうしたことが起こる「場の仕掛け自体」でもあると考えています。例えばギャラリーという「場」で、インスタレーション作品のように、2人のイメージを「合わせ」て1つの「もの」を作る場合もあれば、ペインティング作品や写真のように、お互いに「もの」を作り「並べ」「競う」ようなこともあります。それから、展示として「混ぜ」たりということもある。拡張する「模型遊び」と「芸術」が交差するような領域で、不確定な結果を目指して、差異のある2人の協調、揺らぎ、あるいは摩擦といった関係性によって産まれる不可思議で予測不能、謎めいた「もの」が作品だし、それが産まれてゆく「過程自体」を抽象し、模型化するのも作品です。さらに、僕たち2人自身も含めた「場の仕掛け自体」も、理想状態の模型であり、作品だと考えています。

パラモデル

プラレールを用いたインスタレーションの他にも、様々な形態の作品を制作されていますが、それらすべてに共通することがあれば教えてください。

「模型遊び」にも共通することですが、「工事現場・工場」に漂う、生成過程にある独特の高揚感、創造性や変化、それら全ては建物や製品が完成すると消えて無くなってしまうという刹那性、などに興味があり題材によく用います。理想の作品は、そうした状態をそのまま抽き出し、「過程」「未完成」性を逆説的に内包する模型だと考えています。「模型/設計図」ということは、完成の前段階「可能性」「暗示」「予感」の段階に留まり続けること、でもあります。これらの要素は、プラレールや塩ビパイプなどのインスタレーション、ワークショップ形式の共同制作だけでなく、構想図としてのドローイング、絵馬形式のペインティング(祈りの設計図)、ユーモラスな間取り図作品やミニカーオブジェ(願望の設計図/模型)、極楽絶景のジオラマ的写真(憧憬の模型)、片前足が無い跛行のキャラクター「テナシイヌ」や粘土塑像(欠陥の創造的補完、生成過程の模型)などにも、色々と形を変えながらも通底している要素です。滞在制作もした高知県の「沢田マンション」は、僕たちの目指すそうした要素が全て集約された、拡張し続けるセルフビルド・ブリコラージュ建築です。中に住む大家さん一家が改増築を続け、マンション自身を作るクレーンや工作機器などの「場」「仕掛け」は建物と一体であり、常に「過程」「未完成」性を内在します。部屋の間取りは全て異なり、際限なく自由に「遊び」作る雰囲気が漂う建築です。

非常に幅広いアプローチで作品を制作されていますね。

例えば「プラモデル」は、部品を組み立て完成させ、遊んだり飾ったりする模型玩具ですが、一箱に収まった製品としての「プラモデル」は、「未完成」の模型玩具であり、「イラスト(理想イメージ)を描いた箱」「設計図」「完成予想写真」「プラスチックのランナーで繋がる部品(未完成の断片)」「デカール」「接着剤」「ニッパーなど工具」「塗料」など、色々な要素を一見バラバラに持ちます。それぞれの要素は独立し、自律可能で違った性質を持っていますが、模型の「完成」という目標を共有する一つの全体となっています。しかし、組み立て「完成」する目的で作られた製品ではあるけれど、それに従う必要性はなく、遊び方は自由だし、組み立てず箱のまま置いていても良いものです。よって「プラモデル」の各要素は、表面上それぞれが独立しているようでも、ある理想の元に牽引され、不定形の「可能性」に向かって一つの全体を維持している「可能性の模型/箱」といえると思います。僕たちも同様に、断片要素の集まった「箱」のようなものです。「プラモデル」の箱に描かれた重厚な「イラスト」と中身のチープで軽いプラスチック「部品」のイメージのちぐはぐ感、「ぶれ」にも魅力があるように思いますが、僕たち2人の作品においても「ペインティング」と「オブジェ」など、形式の違う同系統のイメージにある触れ幅、「ぶれ」によって生まれる世界の奥行きや広がりを肯定的に考えています。視差があることで、片方では見えない事を感じられ、表現できると思っています。

パラモデル

作品を通して、鑑賞者とどのようなコミュニケーションを取りたいと考えていますか?

僕たちは、予測不能で不確定な「可能性の箱」のまま目的を限定せずに、2人の相互作用である「模型遊び」という「場」や、その「仕掛け」からどんな「もの」が出てくるか判らない状態を、「過程」のまま維持していくことが何よりも大事だと考えています。だから、観者に意識的に何かを伝えるというよりは、2人でただ遊んでいる自己言及的な様相が濃い。基本的には、2人の何でもない空想遊びを、断片的に、特別なストーリーも無く、からっぽの模型として提示する形です。「プラモデル」が「可能性の箱」であるように、観者が「接着剤」となり「設計図」「部品」である作品を用いて共に遊び、内容を任意に組み立ててくれたら、と思います。そして、「パーキング」や「沢田マンション」の「空き」に入るように、僕たちが遊び作っている「場」や「仕掛け」に観者が入り込めば、その「過程」を追体験する事によって、より共感を与える作品にもなり得ると思います。その点、インスタレーション作品や公開制作、第三者を招き入れるワークショップ形式の共同制作は、全体を追体験、実体験できる面で、共感を得やすいものだと思います。

ワークショップなどは、通常の2人の作業と位置付けが違うものなのですか?

ペインティングやオブジェを個人主義的制作とするならば、対極の制作といえます。僕たちはその両極をパラドキシカルに併存させたいと考えています。現在やっているワークショップは、パラモデルと参加者との「共同制作」と考えていて、僕たちが用意した「場」に、第3者が「プラレール」を広げ、落書きしていくことで「オートマティックな絵画」ができていきます。「プラレール」を広げている様子を定点撮影することによって、レールの広がる「過程」は巨大な絵が出来ていくアニメーションになり、ワークショップ中に「場」や「仕掛け」全体を撮影した写真は、僕達の絵画作品となります。「プラレール」による落書きだけでなく、参加者も「場の仕掛け」として作品の一要素と考えています。

パラモデル

実際に参加される人たちの反応にはどのようなものが多いですか?

今までの経験上、参加者の目的と僕達の意図との間には「ずれ」があることが多いように思います。参加者は「大量のプラレールで遊びたい」「電車を走らせたい」などという目的で来られることが多いのですが、対して僕たちは、参加者に「プラレールと一緒に作品の素材、風景の一部になってほしい」「面白い落書きにしてほしい」などの意図を持ちます。そうした参加者と僕たちの間の「ずれ」はあってもよいと考えています。日常、子供たちがおもちゃで遊んでいる「場」を見ても、個々に遊んでいるようで実は違い、お互いのイメージや世界観を共有しながら遊んでいる。それぞれの頭の中のイメージは違うとしても、無意識に、あるいは意識的に関係性を保ちながら、「場」を緩やかに共有しているという感じでしょうか。僕たち2人の制作でもそうですが、このワークショップにおいて招き入れた第三者の役割も、そうした場合と同様です。完全にコントロールはせず、出来るだけ自由にやってもらいます。ただあくまでも、使う素材やロケーション、小道具などは僕たちが設定します。

そこから生まれる作品と、おふたりで作るインスタレーション作品の違いを教えてください。

特に違うのは、そうしてできる「プラレール」の落書きに僕たちの作るイメージが入らずに、きっかけを与えるだけで自動的に絵画が完成するということと、参加者自体も「プラレール」と共に絵の要素になる、ということです。一方で、「場」「もの」「過程」「仕掛け」それぞれが作品であり、それらがまるごと一つの作品でもある点は、通常の作品と同じです。2008年の夏には、丸亀市の猪熊弦一郎現代美術館で、ワークショップ参加者の制作結果を生かした「パラモデリック・グラフィティ」を展示しました。「パラモデル共同制作所:paramodel joint factory」という、プラレールを使用したワークショップの新しい試みです。参加者が描いたプラレールの落書きを、僕たちがアレンジして空間にレイアウトし、インスタレーション作品に仕上げ、展示公開するというワークショップでした。展示には観客参加型の「仕掛け」も用意し、観客を作品の中に取り入れる試みもしています。またどこかで機会があればやりたいと思っています。

パラモデル

また、プラレールのワークショップとは内容も形式も違いますが、大山崎山荘美術館の展覧会では、ペインティング作品で、ワークショップ形式の第3者参加型共同制作を実験的に行いました。トラックの幌に僕たちが絵の輪郭を描き、その上に約60人の子供たちに顔料ペンで「落書き」してもらい、その後もう一度僕たちが手を入れ絵を仕上げました。近くで観ると落書きがひしめく絵で、これも機会があれば共同制作のペインティング作品として発展させられたら、と思っています。

パラモデル

PUBLIC/IMAGE.STORE

DICTIONARY

RELATED