
TOMOKO KONOIKE | 鴻池朋子 | Artist
六本脚のオオカミや赤い靴を履いた子どもなどをモチーフとした巨大な絵画やインスタレーション、白い毛に覆われた顔のない「みみお」を主人公とする絵本やアニメーション。多彩な表現で独自の世界観をつくりあげてきた鴻池朋子の、都内の美術館では初となる大規模な個展「インタートラベラー 神話と遊ぶ人」が、東京オペラシティアートギャラリーにて開催中だ。「インタートラベラー」とは、作家による造語で、異なる世界を相互に往還し、境界をまたぐ人のこと。新作と代表作で構成された壮大な神話世界を、観客が「インタートラベラー」となり、想像を駆使して旅するという本展について尋ねた。
Text:白坂ゆり
展覧会場を「地球の内部」と設定し、「内核」「マントル」という道案内に従って「地球の中心に向かって旅をする」という大掛かりな構成ですね。空間のスケール感に驚きました。
自分でも、展覧会をつくっていくうちに、空間が深くなっていく感じがしました。模型をつくってシミュレーションしてきたんですけど、実際に展示空間ができたら、自分が小さくなって模型の中に入っていくような感覚が起きて。模型を通じた「ごっこ遊び」に入り込んでいたのかもしれませんね。
「地球の中心への旅」というアイデアはどこから?
以前、科学者とアーティストとで、地球をテーマに何か企画を考えるという機会があって。その時、地球の内部について、実際に掘削してわかっているのは海底から1.6キロメートルまでで、あとは現在の技術では、地震波から質量を計測し、そこから内部構造を決定しているだけだと聞きました。つまり誰も地球の内部は見ていないんです。それなら私のほうが想像力で中心まで行けると思ったんです。その時は形にならずに終わったのですが、今回この展覧会が決まった時、「地球の中心まで行って、帰ってきたい!」と言いました。子どものたわごとのようなものだからこそ、大きな美術館で、それも真剣にやりたいと思ったのです。

「天と地」と言いますが、美術表現でも社会通念でも、天(上)に向かう志向の方が強い気がします。けれど今こそ、足元を見直す時というメッセージなのでしょうか?
人間は、引力との闘いで「上に行きたい、飛びたい」という願望が強いのだと思います。また、上空は目に見えますから、星座の神話などが生まれやすい。比べて、地中は闇でビジュアル的にも地味ですものね(笑)。とはいえ、人間の上昇志向で世界はここまで来たけれども、一方で社会に閉塞感を抱いて、何か手応えを必要としている人も多いですよね。私自身も、自由になるべく、意識が上空に向かっていた時期もありましたが、手応えという重量感はこの見えない闇である「地」の方向にあるような気がしました。
展覧会には明解なストーリーはなく、観客の想像に委ねていますね。
科学者なら例えば、氷床コアを掘削して、氷の中に保存されている古代カンブリア紀のバクテリアなどを解析したりするのでしょうけど、アーティストの役割は、地中の、真っ暗闇でイメージできないところに、遊びのルールを仕掛けて見えない地中を想像させる、意識を変えることにあるんじゃないかと思ったんです。観客それぞれの対峙の仕方で、その人固有の体験ができれば。いい旅行をするとその後もけっこう長く元気でいられるように、その人にとって良い旅になればいいなと。

「mimio-Odyssey」 (DVD)2005
©KONOIKE Tomoko Courtesy: Mizuma Art Gallery
赤い靴の子ども、みみお、オオカミなどもよく出てきます。
モチーフに意味やメッセージを込めているわけではなく、ただ描きたいなと思ったものです。海外のメディアでは特に、「作家の抱えるトラウマ」といったステレオタイプな勘違いをされることもあります。私にトラウマはないのですが(笑)。
むしろ、作品が鏡のようになって、見る自分の中にそういう意識があるのかなと思う時もあります。ですが、初期のナイフなど、鴻池さん自身にも社会への違和感があって、ものを作り始めたのかなとも思いました。
私は何があってもけっこう平気なんです。でも、たとえ幸せな家庭に育っても、何か息苦しさというのはありますね。引力からの脱却を図りたくなるし、呼吸したいという気持ちが作品づくりに向かわせたのでしょう。描き続けるうちに、「こんなに息苦しかったんだ」と自覚しました。けれど、もの作りは、もっともっと深く降りて行って、そことのやりとりになっていくんです。
作っている時は、どういうものになるか見えていないということですか?
最初は、匂いや触覚的な、言葉にならない気配をキャッチしていて、それが何なのか見抜きたいという気持ちがあるんです。作ることで、そのしっぽをつかんでちょっとずつ引っ張り出してくる。気持ちが盛り上がっているだけで形にならないときもあるし、失敗もあります。判断の基準は、素材や方法などすべてがピタッとそうあらねばならないというつながりを持ってくるかどうか。例えば、赤を使おうという時に、人間じゃない何者かがOKかOKじゃないかを言ってくるような感じなんです。
すべてが働き合ってくるような?
そうです。で、そうやって開けても、また何かが立ちふさがっていて、その繰り返し。だけど、閉じているものを開けて、背後にあるものを白日にさらすと、意外と平凡なものだったりもするんですよね。隠していたからこそ神秘的であり、成立していたりすることが、開けてしまうと何でもない普通のことだったりして。真実ってそういうものかもしれない。

「鴻池朋子展 インタートラベラー 神話と遊ぶ人」 2009
Photo:永禮 賢 提供:東京オペラシティアートギャラリー
©KONOIKE Tomoko
ミヅマアートギャラリーで行われた「隠れマウンテン&ロッジ」では閉じていたふすま絵を、今回は開けていますね。
ふすまは、カギが要らず、自分で開こうと思えばすっと開けられますよね。閉じていたものを開いてスタートすれば、また見えないものに出会っても次に進めると思ったんです。
鴻池さんは、そのように感覚を研ぎ澄ませ、想像を働かせながら制作していく行為を「遊び」と言いますね。
考えてやっていないからですね。例えば、オオカミの立体をつくった時に初めて鏡を使ったのですが、グニャッとなったり、ギザギザになったりしてうまく切れず、1週間近くやって初めてスーッと切れたんです。考えてできることはその時点でやる必要がないですから、まずやり始めてはジタバタしながら、何かができていく。持久力が弱いのに大きいことをやり始めてしまい、早く見たいという気持ちも強い。そのために、自分を飽きさせない工夫もします。こういうものができたのかと、自分でも驚くような作品と出会いたいんですね。今回は、施工者もデザイナーも、私というルールの中で遊んでいますし、反発し合ったり、ぶつかり合ったりして高次元の調和が生まれたと思います。

「鴻池朋子展 インタートラベラー 神話と遊ぶ人」
「赤ん坊」 2009
Photo:永禮 賢 提供:東京オペラシティアートギャラリー
©KONOIKE Tomoko
鏡に覆われた赤ん坊の頭部が、ミラーボールのように回転している部屋は圧巻でした。
言ってしまえば鏡が光っているだけなんですが、なぜ光るものにこんなに惹かれるんだろうと思うんです。光に精神的なものを求めるというよりも、ただただ唖然と見てしまう。アカデミックな、中世以降の西洋的な芸術概念ではなく、ラスコーの洞窟に近い感覚なんでしょうね。
それは、ラスコーの洞窟を、鴻池さんはどう捉えておっしゃっていますか?
観光情報程度にしか知らないのですが、ご飯を食べずに生きてはいけないけれど、絵を描かなくても生きていけるなかで、なぜ洞窟で絵を描いたのだろうと思います。当時は今よりもっと絵よりご飯のはずで、ご飯を食べるより、生きる上で重要なものだったのだろうか、だとすれば何がそうさせたのだろうかと。一方、描いた人は「牛は何だかいいなあ」と思って、つい牛の絵を描いてしまう私みたいな人だと思いました。メッセージとかいう言葉の概念のないうちに手が勝手に動き始めてしまった人です。でもそういう人は私の周りにもたくさんいるし、西洋にも地球のどこにでもいるということで、極めて普通の人だということも感じます。
さきほど、「やりとり」つまり「想像すること」は、「目に見えない何者かと交信する」かのような奇妙な感覚だとおっしゃっていましたが、もしかして、ラスコーの壁画を描いた人も、闇の中に差す光をつかみに行くように、何者かとやりとりしていたのかもしれないですね。鴻池さんは、想像による「遊び」とは、古代「遊部」と呼ばれた人々の、葬送の際に踊りなどによって魂を呼び返した技にも似ているといった内容の文章を書かれていますが、それにも通じるかもしれないですね。
ああ、ホントですね。想像することは、胸の奥にいる死者と対話するようなことだとも思います。今回、展覧会は葬式で、作品は死者の魂と遊ぶ道具(おもちゃ)でもあるのです。
それは、作家がそのような交信を通じて創り上げた作品を介して、観客もまたそれぞれに魂と交信し、古代から人間に備わっている感覚を呼び覚ましてほしいということでしょうか。
はい。古代では、呼吸をするように誰でもやっていたのだと思います。
Exhibition Information
『鴻池朋子展 インタートラベラー 神話と遊ぶ人』は、9月27日まで、東京オペラシティアートギャラリーで開催中。

「鴻池朋子展 インタートラベラー 神話と遊ぶ人」
「シラ—谷の者、野の者」 2009
Photo:永禮 賢 提供:東京オペラシティアートギャラリー
©KONOIKE Tomoko










