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TAKASHI HOMMA | ホンマタカシ | Photographer

ホンマタカシを規定することはいまだ難しい。雑誌記事、広告、写真集それぞれで常に自己流を貫いてきたこの写真家を「被写体との距離感」「ドライな視点」といった言葉や、彼の歩んできた時代との関係で語ることも可能だろう。しかし自身「へそ曲がりが自然体」と言う彼は、果たしていま固定された立ち位置を望んでいるのか? 国内3カ所の美術館を巡回する大型個展『ホンマタカシ ニュー・ドキュメンタリー』の東京会場、東京オペラシティ アートギャラリーで本人に話を聞いた。

Text:内田伸一


この個展は金沢からここ東京へ、さらに香川にも巡回する大きなプロジェクトですね。ホンマさんの中ではこうした美術館での個展は、どんな位置づけなのでしょう? 今回は現代美術のルールに則ってやった、というような発言もありましたね。

そもそも写真は現代美術なのか、さらにいえばアートなのか、いや写真は写真だろうといった議論が日本にはいまでも根強くありますよね。展示については、写真家は撮るだけでよいという風潮が70年代からあって、写真はただ横並びにかけておけばいいとか、インスタレーションなんてしゃらくさいとか。そういう中で写真家も、大御所クラスでさえ展覧会では企画側にお任せという傾向がある。でもそれはちょっとおかしいんじゃないかという気持ちがあって、特別なことじゃなく、普通にちゃんと全部自分でやって責任も取りましょうということです。

結果として今回の展示内容はホンマさんが主導し、全体にその意図が反映されていると。

そうですね。今までやってきた中から有名な写真を順番に並べましょう、という単純な回顧展に僕は興味ないので、そうじゃないのをというところからスタートしました。美術館の展覧会では会場側とアーティストがアイデアをぶつけ合って一緒に揉んでいくというのが本来あっていいし、それが理想だとは思うのですが。

これまでホンマさんは、雑誌、広告、写真集といった媒体で表現を展開してきた印象もありますが、美術館での個展ならではの面白さもありますか?

雑誌などでも撮影だけでなくアイデア出しから写真の選択、レイアウトまで関わってきたから、展覧会も同じだと思います。ただ今回は巡回展ということもあり、ひとつのプロジェクトが長いぶんその面白さはありますよね。雑誌も面白いけど、すぐ終わっちゃうという意味では物足りない。でも逆に言えば手離れがいいっていう良さもあるし…だからそれぞれの特性ですね。それと、さっき展覧会を自分でやったというようなことを言ったけど、やっぱり支えてくれる人がいて実現してるわけで、彼らと一緒に長期間作業するのはスゴく楽しかったです。

ホンマタカシ

「ホンマタカシ ニュー・ドキュメンタリー」展示風景

美術館でインスタレーション的な表現を展開したといっても、ホンマさんにとって根本的にはこれまでと変わらない?

そうですね。2次元を3次元にしてもあまり変わらなかった。自分は今までずっとこういうことをやってきたんだな、と再確認した感じです。一方で、写真を展示していく中での再発見はスゴくいっぱいありました。例えば『Trails』は最初、1枚を中央で分割した2枚組からなるシリーズでした。図録にもその形で収録されている。でも、展示のときに初めて全部をバラして巨大な組み合わせとして構成し直したんです。

雪原とそこに散った赤い染みを撮影した写真群がグリッド状にランダムに並び、各々の写真が居場所を得ているように見えます。展示作業中にそういうアイデアを得て、その場で組み合わせを?

そうそう。これは今回、1番か2番目に大きい発見だったんじゃないかな。最終的に、あれがどんな形でもいいんだと気付いたんです。写真家というのは構図を切り取ることに命を賭けたりもするわけじゃないですか。でも今回、自分の写真を半分にしてもバラバラにしても、作品として成り立ち得ると発見できたのは大きかったですね。実際の話、物理的にあのピースで展示する経験で初めてわかったことでした。

同じ部屋には赤い絵の具で描かれたドローイングも展示されていますね。2009年の著書『たのしい写真—よい子のための写真教室』は、写真は「真を写す」だけじゃない、というのがキーワードでした。今回の展示は全体的にその言葉を改めて思い出させる内容です。

確かにつながっています。まあこの個展が『たのしい写真』の実践版ですね。

そこにフォーカスするのは、近年のホンマさんの姿勢なんでしょうか。それともずっとやってきたこと?

今までいろいろやってきたことが全部つながって、あの本からこの個展への流れになっていると思います。ついさっき友達の女優が展示を観てくれて、もう20年くらいの付き合いだから僕の写真もよく知っているはずなんです。それでも『Trails』の写真を見て「これ、足跡も残さずにどうやって絵の具垂らしてんの?」って言ってくるのは、もう僕にとっては大成功ですよね。ひとめ見てわかっちゃう写真はつまんない。例えば、「可哀想なふうに撮られた」可哀想な写真とか、「可愛いだけ」の可愛い写真は僕はつまらないと思うんです。

ホンマタカシ

「Widows」より(2009) ©Takashi Homma

個展タイトル『ニュー・ドキュメンタリー』について伺います。かつて1967年にはMoMAダイアン・アーバスらを紹介した『New Documents』展があり、ごく最近では中平卓馬さんが『Documentary』と冠した個展を開き、またホンマさんとも親交のあるマーティン・パーが企画した昨年のブライトン・フォト・ビエンナーレも『New Documents』をテーマにしました。ホンマさんの視線は、それぞれと何らかの形でつながっているのでしょうか?

少なくとも、マーティン・パーと僕の関心はかなり重なるんじゃないでしょうか。今の時代にどういう「ドキュメンタリー」ができるのか。ドキュメンタリー=今回の震災の報道写真、といった考え方以外にも「真実なるもの」があるなら、そこに写真でどうやってアプローチできるか。オルタナティブ・ドキュメンタリーといってもいい。当然これは試行錯誤ですし、ある種の提案でもあります。この展覧会は僕にとってそのスタートとも言えます。

展示作には近作もあれば、比較的以前に撮られものまで様々な写真があります。これがスタートとおっしゃったのは、ホンマさんの中での「オルタナティヴ・ドキュメンタリー」の考え方も時と共に変化しているということ?

撮るだけがドキュメンタリーではないでしょう。例えば『Tokyo and My Daughter』は11年間撮り続けていて、その時間全体をどう見せるかというドキュメンタリーだとも言える。僕の写真だけじゃなく、(被写体の少女の)本当の親が撮ったスナップ写真を僕が複写したものを混ぜてちょっと複雑にして、さらに僕の撮った東京の風景写真も入れています。そうした提出・編集方法も含めてのことです。

ホンマタカシ

「Tokyo and My Daughter」(2010) ©Takashi Homma

活動の初期にもご自身の写真表現について「撮るの半分、選ぶの半分」と発言していましたね。いまは展覧会での提出方法が「選び」に加わったということでしょうか。なお今回の個展は、金沢と東京ではまた色々見せ方が違いますね。1作品はまるごと入れ替わっています。

金沢では場所柄も考えて現代美術寄り、インスタレーション寄りに構成したつもりです。東京版はもうちょっと写真寄りに戻した感じかな。加えて、東京ではサテライト展を都内9カ所で開催します。入れ替わった作品も、このサテライト会場で展示します。このサテライトは「おまけ」じゃなくて、あくまでオペラシティの空間の別部屋みたいな位置づけです。ここ、特に強調しておいてください(笑)。

「東京」での個展における思い入れは?

知ってのとおり僕は、タイトルに「ニュー」をつけることも多いけど、同じくらい「東京」をつけることも多いんで(笑)。このふたつは自分のメインテーマですね。それこそ今回あの震災があって、東京にも様々な形で影響が出て、今後さらに…と言われたりする中で、この都市で暮らすということを考えなくてはいけない。だから会場に来てくれる人が、地震後に僕の東京の風景を見てどう感じるかには興味があります。

観衆の反応はどのようにとらえていますか?

美術館での展示は、評論家も相手にしなきゃいけないのと同時に、一般のお客さんも観に来ますよね。例えば『Trails』で写真と一緒に絵も展示したのは「“こう観なさい”っていうのが説明的過ぎる」なんて批評家に言われたりもする。でも一方で、さっきの女優のように感じる人もいる。いわば両方と勝負しなきゃいけないんだけど、結局、最終的には自分がやりたいことをやるしかないんですよね。だって文字通り、10人いたら10人違うこと言うから(笑)。ひとつだけ言うなら、誰の記憶にも残らない展覧会にだけはしたくない。それこそこうした時期に予定通り開催させてもらったからには、良くも悪くも議論になる内容にしないと。

ホンマタカシ

「ホンマタカシ ニュー・ドキュメンタリー」展示風景

観衆とは違いますが、ホンマさんはご自身で多分野の方にインタビューするのにも意欲的ですね。『たのしい写真』では生態心理学者の佐々木正人さんとの「アフォーダンス」のお話から、写真史の見え方が変わったというくだりもありました。写真表現とは別に、人間に近づいていく作業に興味があるということでしょうか?

近づいていくっていうのとは少し違う。あまり「仲良し」にはならないから。それと、個人としての自分が内面に持っているものは過大評価してないんですよ。「やりたいことをやるだけ」って言うのとは矛盾すると思うかもしれませんが。親しい建築家の塚本由晴さん(アトリエ・ワン)の言葉で「観察と定着」というのがあって。このふたつは本来循環すべきだと言うんですね。僕にとってはインタビューしに行って相手の話を聞いて、その内容を僕が受け止めて、でもそれが一方向じゃダメなんです。仲良しこよしじゃなく、互いにしっかり影響を与えつつ、それが循環していく関係を目指すということかな。今回、最後の映像作品は作曲家の阿部海太郎さんと組むことで、1+1が3になるみたいなことをやったつもり。そういう意味ではこの個展、実はほとんどが他人力です(笑)。

そもそも「作者」なるものの存在を疑うところもある?

俺が俺がっていうのは…複雑ですよね。自分勝手なことをやる俺と、俺を消す俺がいる。でも楽しいというか、自然体です。じゃないとこの規模の展覧会して、プラス9会場のサテライトなんて無理(笑)。いわば分身の術みたいな。

ホンマタカシ

「Trails」より(2010) ©Takashi Homma

分身のお話でいうと、ホンマさんの中間性というか、例えば現代美術と写真、あるいは撮る/選ぶの話もそうかもしれませんが、どちらか一方でなくあえて中間に居る、ということはあるのでしょうか。それともこれも、自然体?

うーん。子供のころからそういう違和感というか疎外感はあったんじゃないですかね。それに、スポーツでも難しいことの方がやりたくなるというか、面白いじゃないですか。『東京郊外』(※1998年のホンマの写真集。第24回木村伊兵衛賞受賞)だって、当時、東京の郊外を撮ろうとした人っていない。東京を撮るならせめて下町情緒とか、歌舞伎町とかという中で、あえてやったわけです。スゴい難しいんですよ。だってふつうファミレスを撮っても作品にならないでしょ?(笑)

本能的にそういった対象を…というより、確信犯的なんですかね。

というより、本能的なへそ曲がりなんだよね。それがつまり自然体ということ。でも生物学者の福岡伸一さんによると、人間って2、3ヶ月で細胞が全部入れ替わるっていうから、その時間が経ったらもうほとんど別人とも言えませんか? あとはもう適当に、記憶を再構築して何とか自分が自分であるってことをつなぎとめてるんじゃないかな。だから僕の言うことあんまり信用しないでください(笑)。

シリーズごとのテーマと、1枚1枚の写真との関係性はどう考えていますか。「撮る」と「選ぶ・提出する」はどう作用し合うのでしょう。

いま欧米の写真はコンセプトばりばりのが多くて、自分で撮るのには興味がない人さえもいる。コンセプトを決めた時点である意味終了していて、後は作業として撮る感じ。でもそうなると結果的に面白くないことが多い。僕は日本的な部分と欧米のコンセプチュアルな部分の両方あるつもりで、撮るときは撮る喜びに集中できる。そのあとは客観視して編集できる力が、他の人よりはあるんじゃないかという気が勝手にしています。

ホンマタカシ

「M / Washington D.C.」(2010) ©Takashi Homma

『たのしい写真』ではホンマさんの考える写真史の大きな山として「決定的瞬間」「ニューカラー」、そして「ポストモダン」が語られます。こうした歴史観の中で、ご自分のことはどのように位置付けますか?

あの本ではポストモダンと書いたけど、今書き変えるならあそこは「現代写真」ですね。だからもちろん僕は現代写真。でも居場所がないとも言えるし、いろんなところに片足つっこんでいるとも言える。もちろん現代写真も色々で、あの本でも便宜上マッピングはやったんですが、じゅうぶん練れてなくて(苦笑)。逆に言えば、マッピングしづらいのが現代写真の最大の特徴とも言える。

最後に「長続きの秘訣は?」という質問をしてもよいですか。これはホンマさん責任編集の『ウラH ホンマカメラ』(1998)で、ご自身が篠山紀信さんと荒木経惟さん、それぞれに質問していたのが意外というか面白かったんですが、20年以上活動してきたいま、ホンマさんの答が聞けたらなと。

うーん。僕の特徴として人にはインタビューで色々聞くけど、自分のことはあまり話さない、というのがありますんで。アハハ、すみません(笑)。

実はそれがホンマ流の長続きの秘訣、かもしれませんね(笑)。

いや、やっぱりそういうのは60,70にならないと。70歳になったら教えますよ。


ホンマタカシ

「ホンマタカシ ニュー・ドキュメンタリー」展示風景

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