
SHIN SUZUKI | 鈴木心 | Photographer
日々大量の写真がアップされるWebサイト「suzukishin.jp」をはじめ、写真集、写真展などを通じて個人作品を発表する傍ら、CDジャケットや広告など数々のクライアントワークも並行してこなすなど、多岐にわたる活動を展開する写真家・鈴木心。ドラスティックに変化する写真を巡る状況に向き合い、必要に応じてアウトプットを変えながら、”日常なき世界”にカメラを向ける彼は、写真に抱かれた幻想や既成概念と徹底的に戦い続けている。3.11以降も、精力的にアクションを起こしてきた気鋭写真家に話を聞いた。
Text:原田優輝
写真を始めたきっかけを教えてください。
高校を卒業してから、20歳くらいまでバンドをやったりしながら、フラフラ遊んでいたんです。その後大学に入ったのですが、僕の学部は写真、デザイン、メディアアート、映像という4つの選択肢があり、その中から写真を選んだというのが最初のきっかけです。自分は絵が描けなかったからデザインは無理だし、映像は飽きやすい自分にとっては時間がかかりすぎる。メディアアートは日々技術が変化するから難しいと思い、最終的に残ったのが、一瞬で形にできる写真だったんです。
それまでは写真との関わりはほとんどなかったのですか?
高校の頃に、学校の近くの写真屋で数ヶ月バイトしていたことがありました。そのときに、現像やプリントなど基礎的なことは覚えました。高校を卒業してからも、母と2ヶ月くらい海外を旅行しているときに、旅先でコンパクトカメラをもらい、それを大学入学まで使っていました。だから、今振り返ると完全にゼロからのスタートだったわけではなかったんです。当時プリントした写真はいまだに取ってあるのですが、正直そのときからそんなに上手くなっていないと思います(笑)。友達やバンドなどを撮っていたのですが、そのときの写真の撮り方が自分のベースになっていて、あまり変わっていないんです。

当時被写体として興味があったのは「人」だったのですか?
それだけではないですね。僕はテレビゲーム世代で、中学生の頃までゲームプログラマーになりたかったんです。ゲームの中には秩序立った世界があって、自分が何者かを問うことなく、ゲーム内の目的があり、ゴールがある。それが現実の社会に近いと感じていたんです。学校に行っても、「道路の右側を歩け」とか「こういう服装をしろ」とか、色んな規制や秩序がありますよね。でも、そういうものを信用したくないんです。だから、写真を通して何かを風刺したり、当たり前だと言われていることが実は当たり前じゃないような瞬間を映す、ということに興味があって、その行為が自分にとってスゴく気持ちが良かったんですね。だから、特定の被写体にこだわるわけではないんです。それは今もずっと変わりません。
写真という表現手法が、鈴木さんにとっては最適なものだったのかもしれないですね。
例えば、音楽というのは写真と違って、一瞬では表現できないですよね。しかも、形があるものではなく、空気を振動させて伝えていくものだから、とても感覚的です。一方で写真は、自分の思想を瞬間的に記録して伝えることができる。その方法が、自分にはやりやすかった。あと、人間というのは、日々動的な空間でものを見ているわけで、静止画でものを捉えることはできないじゃないですか。その日常の一部だけを抽出して、静止画にするという行為がそもそも非日常なことなんですよね。「日常を非日常化できるメディア」というのも、自分のやりたいことに向いていたんです。

すでにそこにあるものを自らの視点で切り取るというのは、写真の本質でもありますよね。
真実を曲げたり、上塗りしていくような表現をするなら、写真じゃなくていいと思うんです。写真はボタンを押すだけにも関わらず、誰もが見られるはずのものを、違う形で見せていけるというミニマルなところが面白い。逆に、それを最大限生かせなければ、写真の必然性はなくなると思うんです。そこはこだわっているところですね。
そのような写真に対するスタンスは最初から確立されていたのですか?
いえ、写真家の畠山直哉さんとの出会いや教えがきっかけで、こうした考えを言語化していけるようになりました。畠山さんに教えてもらったことは、「子どもでもわかるような言葉で自分の写真を説明できないといけない」ということなんです。自分の考えが複雑なものだとしても、それをできるだけ噛み砕いて、簡単な言葉で説明できるようにしていく。それによって、常に「撮ること」と「考えること」が一体化するんです。そうやって言語化することで、自分でも初めて理解できるところがあって、そうやって動機が明確になっていくと、ドライブがかかってくるんです。

鈴木さんにとって、シャッターを切りたくなるのは、どういう瞬間ですか?
一般的に日常と思われている自分を取り巻く環境すべてを、僕は非日常と感じるんです。例えば、「このお店の壁はなぜこういう色をしているんだろう?」とか、「なんでぬくもり感を出すために木を使っているんだろう?」とか、そういう問いかけに対して答えが出てこないものを撮っていくんです。以前は、一枚の写真でそれを表現していこうと考えていたのですが、むしろそういう視点をすべて撮っていくことで、点が線になり、さらに面や空間となって現われてくるんじゃないかと考えるようになりました。自分にとっては、日常の中のある一部分が非日常というわけではなく、すべてが日常であり、非日常でもある。自分が毎日見ていて、うさん臭く感じているものを、写真を通して立証していくという感じです。
suzukishin.jpで日々大量に写真を公開していることにも、そうした考えが反映されているようですね。
そうですね。あと、情報化された写真は共有されることが大前提という考えもあります。自分が何かに辿いていようがいまいが、とにかくまず共有をしていく。それによって誰かに何かを言われて、それが考えるきっかけになることもあるし、Webサイトを通して多くの人と出会えたりもしました。フィルムで撮ってプリントして、写真展をやるという流れとは違うスピードで展開ができるんです。著作権なんて放棄してしまって、自分が持っているソースはなるべくシェアしていくというところから始めようと思っています。

「suzukishin.jp」より。
同じ被写体を微妙に違うフレーミングで撮影した写真が両方公開されていたりもしますね。そこに鈴木さんの視点を感じることができて興味深かったのですが、セレクトはあまりしていないのですか?
ほとんどしていません。精査していくと完成度が高くなってしまうんですよね。そうすると結局自分の感性と技術に基づいたものでしかなくなってしまう。逆に、こうやってベタ焼きをそのまま見せるようにすべてをアップすると、ダサさも出てくるのですが、そこは大切にしたいところなんです。一時期、自分も技術至上主義みたいなところに傾倒していたこともあったし、いまでも仕事で求められればそういう部分も出せるのですが、完成度だけを突き詰めていくと、結局マシンと技術に依存する部分が大きくなりすぎてしまって、みんな同じような写真になってしまう。今は誰でも写真を撮る時代じゃないですか。自分としては、技術をあえて捨てることで、そういう人たちと勝負をしていきたいんです。日常を切り取る視点で、写真家としての自分を切り開いていくというのは命題のひとつですね。
写真を取り巻く環境が大きく変わるなかで、プロの写真家の存在意義も変わってきているのかもしれません。
目の前にクリスマスツリーがあったら、みんな携帯電話でそれを撮るという時代ですよね。これだけ写真が変化しているのに、写真家の方がそのスピードに追いつけていないという現状がある気がします。自分としては、マシンに依存していく写真ではなく、ネットワーク化、デジタル化を許容して、現在の写真を一番新しいと思える方法で見せていきたいという思いがあります。例えば、単に写真集を作ることがすべてではなくて、紙という媒体に頼らない写真作品のあり方というのも、もっとあると思います。極端な話、写真集はお金があれば出版できますが、いま見つけなくてはいけない答えは、そこにはない気がします。次のステップはすでに開かれているのに、みんなが怖がって入ろうとしていないので、それなら自分がやっていこうと。

「Lumine」

フルカワミキ「VERY」
一方でクライアントワークの場合は、技術や完成度といった写真に対する既存の価値観が評価軸になることがほとんどだと思います。
そうですね。もちろんそれを求められればやりますが、最近は器用に対応するということはやめました。特に震災以降、その思いは強くなりましたね。事なかれ主義で制作をしている人たちに対しては、それを踏んづけながらものを作っていくようにしています(笑)。制約やしがらみに縛られていくと、つまらないことしかできなくなるし、自分がいつ死ぬのかもわからないのに、いつまでもそんなことをやってられないですからね。ただ、仕事によってストライクゾーンは違うし、お金をもらっているわけですから、その対価に見合う写真として、しっかり自分のブランドを提示できるものを作っていきたいと考えています。
震災後、福島で撮影した写真をTwitter経由でアップしていましたが、どのような思いがあったのですか?
災害が起こったときは、なるべく現地に行くようにしているんですけど、福島は自分の地元で、まったく他人事じゃなかったこともあり、とにかく現地の空気感を伝えたいという思いが今回は特に強かったですね。実際に行ってみると、あまりにエリアが広くて、いくら撮影しても一向に撮れたという感覚は得られなかったし、無力感さが残りました。それでも、東京をはじめ被災地から離れている人たちに、「忘れるなよ」ということだけは伝えたかった。忘れないことが、自分や仲間を守ることにつながっていくのに、東京にいる人たちがケロッと忘れてしまっている気がして、それが頭に来て。そういうメッセージを伝えたかったというのもありましたね。


写真には、記録媒体としての側面、商業物としての側面、アート作品としての側面などがあります。鈴木さんは、状況に応じてそれらを使い分けているようですね。
それぞれのカテゴリに対してアウトプットできることを常に考えています。それがある意味、社会性を持った作品の出し方なのかなと思っています。自分のためだけにやって終わってしまっても仕方ないですからね。そうやって自分の立場を社会的な側面から把握していくことで、必ずしも自分が手を動かすことだけが有効な手段ではないという考えにたどり着くことができました。例えば、今回の震災のようなことが起きたときに、それまで自分のことしか見ていなかった人たちは、自分の手を動かすことだけがすべてだという考えに陥りやすいと思うんです。自分が最前線に行くことがすべてではなく、もっと大きな効果を社会的な現象として広げていくやり方もあると思うんです。
具体的に進んでいるプロジェクトなどがあれば教えてください。
よしもと写真館というプロジェクトを立ち上げました。吉本興業のお笑い芸人が、依頼を受けて、記念写真を撮るというものです。人生の節目に撮影する写真を、街の写真屋さんではなく、心から笑わせてくれる芸人さんに撮ってもらうことで、写真が残っていくというサイクルを作りたかったんです。これに関しては、自分ができることは写真を撮ることではなく、インフラを作ることでした。撮る人と撮られる人の関係性がわかる写真家の目線があったからこそ提案できたことだと思っています。このプロジェクトは、被災地も含め、これから広げていけたらと考えています。
その他に今後の予定や、やりたいことなどがあれば教えてください。
6月にパリで、以前にコラボレーションしたカリモクとまた写真展をする予定です。写真に関するワークショップも引き続きやっていきたいですね。あと、今年は自分にとってのデジタル元年なんです。去年まではフィルムも使っていたのですが、そういう機材は全部売り払ったので、自分がこれからどう変わっていくのかというのも楽しみですね。それと、震災の影響で中止になってしまったGEISAIで、建築の作品を発表する予定だったので、次の機会にはそれも出したいですね。必ずしも写真にこだわらなくても自分が伝えたいことは表現できると思うので、これからは写真を基軸にしつつも、伝えていく手段を常に吟味し、活用できるものは使っていきたいなと思っています。
鈴木心氏×ムラカミカイエ氏によるトークイベント「PUBLIC/IMAGE.SESSION Vol.9」が、5月13日に池尻・PUBLIC/IMAGE.3Dで開催予定。ご観覧希望の方はこちらから。

A DAY KARIMOKU NEW STANDARD × SHIN SUZUKI

ワークショップ「写真会議」














