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RYOTA KUWAKUBO | クワクボリョウタ | Media Artist

メディアアートという言葉がまだ定着していない90年代末に、「デバイスアーティスト」として活動を開始し、人間と機械、アナログとデジタルといった境界領域で起こる現象をテーマにした様々な作品を世に送り出してきたクワクボリョウタ。これまでのクワクボ作品といえば、何かしらの機能を持ったユニークなガジェットを創り出すことで、人と機械の関係性を模索するようなものがほとんどだったが、昨年発表された最新作「10番目の感傷(点・線・面)」では、これまでとは一線を画すインスタレーション作品を発表し、大きな注目を集めた。ICCでの展示以来、国内外での大反響が続くなか、新境地を見出した彼にインタビューを行った。

Text:原田優輝

「デバイスアーティスト」と名乗り、活動を始めるまでの経緯を教えてください。

もともと大学で美術を学んでいたのですが、卒業してから2年くらいプログラマーとして働いていて、そこで電子回路を作ったりしていたんです。その頃に、「ビットマン」の原型になるものを明和電機の土佐社長に見せて、一緒に作ることになったのが、活動を始めたきっかけです。その時に、肩書きのようなものをつけようと思ったのですが、アーティストと名乗るにはちょっと後ろめたい気がして(笑)。とはいえ、エンジニアと言えるほどのスキルもなかったので、アーティストとエンジニアの折衷案という感じで、「デバイスアーティスト」と名乗るようになったんです。

当時からアート作品を発表していくという意思はあったのですか?

はい。ただ、当時作っていたものが、本当にアートと言えるのかということは正直わかりませんでした。まだメディアアートという言葉もない時代だったし、自分がどういう土俵にいるのか全然わからずに作っていたところがありました。自分の技術的な限界もあったので、できる範囲で一番面白そうなものやメディアを選んでいったら、結果としてこういう活動になったという感じです。

作品を制作する上で、当時から一貫したテーマはありましたか?

以前から人間と機械の境界領域に興味があって、人間にも機械にも見えるようなものを作りたいという思いがありました。最初に作った「ビットマン」もまさにそういう作品です。ユーザーが任意のメッセージを入力すると、それに応じて、8×8 LEDマトリックスに、ビットマンがダンスするアニメーションが表示されるというものでした。当時からすでにテクノロジーはだいぶ高解像度に向かっていたのですが、あえて不自由なところでやってみようと思い、8×8のフォーマットにしたんです。


クワクボさんの作品は、必ずしも最先端の技術を使うというわけではないですよね。そこには何かこだわりがあるのですか?

特に活動を始めた当時は、モノの限界性能みたいなところに興味があったので、一定のルールの中でどれだけやれるかというところを追求していました。ちょっと俳句みたいな感じですね。ハイスペックな作品であれば、圧倒的なインパクトはあるかもしれないけど、作品の占める価値がメディアや技術の新しさに支えられているとすると、3年後にはほとんど意味をなさなくなってしまう。それよりは、なるべく作品独自の価値を作りたいと思っています。それに、あまりに高度な技術だと、作品の理解のされ方が変わってしまうんですよね。僕の場合は、見る人が「ものの道理」を理解した上で、面白いと思ってもらえるにしたいと思っているところがあります。

ある種の規制の中で、ものの道理や仕組みを見せていくというのは、一貫したテーマになっていますよね。

そうですね。あるメディアを設定したときに、それによってどんなことが起こるかということに興味があるんです。メディアというものは、人間にとって規制にもなります。その規制の中で人が振舞ったときに、どんなことが起きていくのか。そこにはひとつの道理や仕組みがあって、今も変わらず興味があるところですね。

最初の作品「ビットマン」は、後にプロダクトとして発売されましたが、作品をプロダクト化するという意識は当時からあったのですか?

そうですね。それは、大学時代からお手伝いをしていた明和電機の影響が大きいかもしれません。自分の作品が、何かしら機能を持った機械のようなものに落とし込まれているのは、明和電機の方法論にかなり影響を受けているからだと思います。



最近では、「ニコダマ」もプロダクト化されていますが、どのような経緯で製品化に至ったのですか?

これを作る直前に子供ができたのですが、子供の目を見ていたときの記憶や、ふたつの離れているものがシンクロして動くことの技術的な面白さ、目玉がグルグル動くオモチャのシールなど、頭の中にあった色々な要因を合わせて、プロトタイプを作ったんです。それを以前に「ビットマン」を一緒に作った会社に持ち込みました。こういうものは、瞬間的なインパクトが重要だったりするので、企画書に「ものに付けると瞬きします」とだけ書いてプレゼンしても、あまり伝わらないですからね(笑)。

「ニコダマ」のように、日常にある様々な要素が合わさって作品が生まれるということは多いのですか?

そうですね。例えば、街を歩いていると、役目がよくわからない人工物みたいなものって結構あるじゃないですか。そういう普段は小さすぎてあまり気にしていないものをピックアップしておくんです。そういうくだらないフワフワしたものが集積して、作品のアイデアが生まれることが多いです。そして、作品としての最終的な質感が見えた段階で、実際に作り始めるんです。例えば、腰に装着した尻尾がセンサーによって動く「シリフリン」では、その尻尾の動きがイメージできたときにピンと来たところがありました。もともとは、四足歩行の別の作品を作ろうとしていたのですが、その過程でターボモータをつなげて動かしてみたら、スゴい動きになったんです。それを見てゾワゾワするところがあって、四足歩行で生き物らしいものを作るよりも、1本の尻尾がグニャグニャ動いているという作品に変えたんです。

モノや動きの質感というところがかなり重要なのですね。

「シリフリン」にしても、自分で装着して試しながら作っているし、もちろん人ありきで考えていきます。でも、最初の段階では、動きや質感という要素は大きいですね。人がどう反応するのかというのは、あくまでも自分の判断でしかないんです。ある装置を作ったときに、それによって人がどう振り回されて、何が起きるかというのを描こうとするなら、「ドラえもん」みたいなマンガを描いた方が面白い。僕のように、ただモノとしてそれを提示した場合、必ずしもそこで面白いことが起きるとは限らないんです。それでも僕がストーリーを作らずにモノだけを作っているというのは、そこにあるモノの質感だったり、ゾワっとする感じというものを重視しているからだと思うんです。


最新作「10番目の感傷(点・線・面)」では、これまでの作品とは一線を画すものになりましたが、これはどのようなきっかけで生まれたのですか?

今まで自分が作ってきたガジェット的な作品に対して、自己批判的に作ったところがあります。ここまで話してきたように、今までは「自分が動くと、尻尾も動く」というように、因果関係のハッキリしたフレームの中でしか作っていなかったんですね。機能があるものを作ることで、どこかで逃げを打てる状況を担保していたんです。また、最近のメディアアートは全般的に、感性の部分よりも、因果関係に対する複雑な理性的判断を必要とする作品が多くなっている気がしていました。僕自身は、因果関係をクリアにしたいという思いは今も変わりませんが、見る人が因果関係を了解してもなお、深く入り込んでいけるような作品を作ってみたいと思ったのがきっかけでした。

そのためには、インスタレーションという展示形式が必要だったのですね。

今までハンディな作品を作ってきた理由のひとつに、使う人の生活や文脈の中に、作品を位置付けられないかという意識がありました。でも、実際にそれができているのは、おそらくプロダクトとして販売したものだけだと思うんです。それ以外のケースでは、美術館やギャラリーの展示台の上で架空の状況を設定した上でしか、人との接点を作れていないんです。それは商品サンプルとして見せることに近くて、見ている人とのつながりも架空の状況なりのものに留まってしまう。それと、そういう提示の仕方だと、見ている人が、どこまでが作品なのかということを了解できますよね。その裏には、手に取ったもの以外を切り捨てていくという作業がある。一方で「10番目の感傷」の場合は、塀の中に入ってきた段階で作品は始まっていて、見ているうちにシルエットが映し出される範囲も変わるので、作品の範囲が広がっていく可能性がある。展示空間や、周囲で鳴っている音なども含めて、そこにあるすべてを作品の要素として受け入れ可能になるような状態に、人の感覚を持っていけないかという意識があったんです。


光源である鉄道模型が動くことで、ものの影が壁や天井に投影されるという、原理的にはとてもシンプルな作品ですよね。

すぐにわからないのは模型の制御の部分だけで、それ以外は自然現象をそのまま見せているだけとも言えます。そういう意味ではこれはイリュージョンではないのですが、見る人にとってはある種のバーチャルなイメージにもなり得る。その辺の入れ子構造も面白いと思っています。あと、重要な要素は時間軸ですね。一般的に考えて、造形作家よりもミュージシャンの方が、人の心を動せると思うんです。それは、見る人がそこにどれだけ時間を費やしているかというところが大きい気がしていて。この作品では、見る人は模型が通り過ぎるのを時間をかけて待つしかないんです。ロジックによる理解とは関係ないところで、作品と過ごす時間というのも大切なんじゃないかなと。この作品を作って実感したのですが、意味や文脈がなくてもじゅうぶんに機能する作品というのはあるんですよね。たとえば、この作品では映像史を参照していたりするのですが、それを見る人が全員知っている必要はないんですよね。僕が作品に込めた意味なんかより、それぞれの人が持ってくれた感想の方が大切ですからね。

ただ、欧米などでは、作品の文脈やコンセプトが重視される傾向にあるのも事実ですよね。

日本でメディアアートをやっている人たちも、そのルールに則ってやっているところがあるけど、僕も含め大半の人は無理に嘘をついている部分がどこかにあると思うんですよね(笑)。もちろん、そういうものがないと受け入れられない世界だからしかたないところもあるけど、そもそもメディアアートという分野は、作品と作者に比較的距離感があるものだと思うんです。ある程度客観的に考えて、戦略的に作品の価値を持たせているところがある。それは言い換えてしまうと嘘とも言えるんです。「10番目の感傷」もそうですが、説明しようと思えばできるけど、それをあまりやらない方がいいんじゃないかなという気はしています。


過去の歴史や文脈が、作品制作の拠り所になるということはないのですか?

それはありますよ。感覚的にいま面白いと思うものを単純に作ればいいかというと、決してそうではなくて。たとえば、今回はフッサールなどの現象学系の本を読んで刺激されたところがありました。それをロジカルに組み立てていくわけではないですが、過去の記録を参照することで、初めていま何が面白いのかが分かるということも多いですからね。

「10番目の感傷」は、クワクボさんのターニングポイントにもなりそうですが、今後作っていくものは変わっていきそうですか?

インスタレーションでやりたいことは他にもあるので、それはそれで継続しつつ、並行して今までのようなガジェット的な作品も作っていくという感じになると思います。インスタレーションをやっていくことで、ガジェットの方はもう少し吹っ切れた、より純度の高いものになるかもしれない(笑)。要は、両者の切り分けができるようになったということだと思います。

最後に、今後の予定等について教えてください。

秋に、神戸、大阪、京都の3ヶ所で展示があります。すべて「10番目の感傷」関連の展示ですが、展示場所に合わせて形を変えていこうと考えています。



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